昭和41年02月03日 朝の御理解
ここで暫くでも、信心の稽古をさせて頂いておる程しの人であるならば、人間心を使うては、おかげは受けられないという事を、位な事は皆さんは良う知っておるだろうとこう思います。人間心を使いますとね、いわゆる感ながらに現れてきておる、おかげを邪魔する阻害する、神様にお願いをし神様にお縋りをし、神様はその願いに応えて早速お働きが始まるのだけれど、私共が浅はかなつまらん人間心を使いますと、ね、その人間心がです、神様のその大きな感ながらなお働きを、壊してしまう事になるのです、ね。
人間心を使いなさんなと、神ながらでいきゃいいと、いわゆる神ながらなおかげを頂かにゃんならんと言うのがです、本当に私は分かっただけではなくて、自分の日常生活の上に、それが本当にこう頂けなければいけんと、ね。例えば、就職のお願いをした人、神様にお願いをして、お縋りをさせて頂いた、それに人間心を使うて、教えにもいわば、頂かずにあれやらこれやらと、その自分で決めてしまう、そしてまぁいつも努力を致しますから、その努力によって、就職のおかげを頂いた。
すぐその後に、神ながらなおかげがやってきたけれども、さぁどっちつかずになってしまう、そう言う例はいくらもあるです。そして、自分はそれは勿論、おかげはおかげですけれども、本当のおかげでないです、本当のおかげを頂く為には、どこまでも神ながらなもの、ね、もうまぁ自然主義、私の生き方はある意味で、自然主義と皆んなが言うぐらいですけれども、ね、それが、本当に神ながらな生き方と、神ながらなおかげを頂いて行こうとする私の精進なんです、努力の現われなんです、ね。
そして、神ながらのおかげと言うて、神様が何とかして下さるだろうと、言った様な安易なものではなくてです、もうギリギリ一杯自分では真心を込めた信心が、成されて行かなければいけん、ね、言うなら、私共は人間心を使わんで済むかと言うと、人間だからやっぱり人間心を使う、人間だから、人間心を使うのは当たり前、ですから、その人間心でも、私はその浄化されたもの、ね、お取次ぎを頂くという事はその自分の人間心を浄化する作用、そう言う働きがある。
実は私は先生こう思うんですけれども、どうぞよろしくお取次ぎを御願い致します、ね、それにそうなと、けれども神様はこう教えて下さるから、こうと右がいい左がいいと、ね、という事になっていけば良いのである、それでもどうでも自分の思いが良かろうごとあるならばです、そこんところを曲げて、神様に又お願いをするが良い、但しその人間心の中に、ね、親身なもの実意なもの、ね、実意なものがなかったらそれはいけません、人間心でも、実意のこもったものならば有り難い。
真心のこもったものなら有り難い、いわば、最高の人情と言うか、最高の人間心、私共は使うならば、この最高の人間心を使うていきたい。自分の我情我欲の為のもの、一時どん早う息子ば働かせんならんけんと思うてから、はぁもうやぁやいうちから、あっちこっち、いわば、就職を頼んで回る、これなんかは、ほんな我情我欲のために、息子ば働かせようとするところに、そのいわば、就職のおかげを頂いても、それは本当な事にはなってこない、おかげを受けても、ね。
例えばその後から本当の御用がやってきても、もうその時には、もう取り消しがつかない、どっちつかずになる、と言った様な例はです、もういくらでもあることですから、お互いが、ね、これはもう就職とか、なんかという限定した事ではありません、もう一切の上にそうなん、もう信心をさせて頂くものはですね、もう本当に神ながらなおかげを頂かせて頂くために、どうでもここんところの人間心を使わんで済む、私にならにゃいかんです。人間心の強い人はおかげを頂かんです、必ず苦労致します。
もうそう言う人は必ず悲劇のヒロインになります、人間心の強い人は、ですからその人間心がです、最高なものであればいい、実意なものであればいい、そう言う人間心の使う人がですね、例えば我情の為に我欲の為に、又自分の顔を立てる為に、きざな私は人間心を使う時に必ず失敗する、私共人間心の中には、だから人間心をつこうても、はぁこれは自分の我情我欲の為の、人間心じゃないだろうかと思うて、我情我欲が入っておる時には、その人間心で思いついたことは、絶対止めなければいけませんよ。
もう信心をさせて頂くなら、もうここんところを、本当一つ分かり、人間心を使うちゃいかん、神ながらでいかにゃいかん、神ながらでなければ、神ながらなおかげは受けられんという事は、皆が分かっておる、椛目で暫く信心の稽古をさせて頂いた者なら分かってる、けれどもつまらん人間心を使うて、神様のおかげをいわば先手、後手とこう申しますが、後手あとで後手になって行く、おかげがちぐはぐになっていく、人情人間心と言うものは、そんなに神様の働きをです、壊してしまう働きしかないのです。
人間の、いわば浅はかなところが、私共人間だからやはり人間心を使うと、ね、ですから、これが段々清まってくる高められてくると、その清められた心の中から生まれてくるであるから、その人間心は本当に、いわゆる神心と思われるような心が、使う事が出来る、いわゆる親切な心である、親が子を思う切なる本当の真の実意な心である、これなら人間心でも最高のもの、最高のものではなくても、お取次ぎを頂いて、そのお取次ぎによって、一遍浄化したものでなからなければ、その心一つが使われない。
行動には移されない、もう大変大事なところですから、皆さんどうぞ、ここんところを思うとかなければいけません。ところが、厳密に申しますとです、本当に、私共の我情我欲が人間心の上に現れて、それが形の上に現れておるような事が、沢山ございます、そこでお詫びしなければいけません。本当に心からお詫びしなければなりません、詫びればまた許してやりたいのが、親心と仰るから、神ながらなおかげが、例えばこちらの方へ流れてきよります。
そこに、つまらん人間心を使うた為に、その人間心に引っ掛ってから、こちらの方へ、今度は、おかげが向こうの方へ、流れて参ります、そこに詫びと言うです、詫びと言うその詫びが、叶うところに、その向こうに流れて行きよったおかげ、またこちらの方へこう流して、こちらの方へ流して、生まれるような、おかげにも又なってくるのです。このことなんかはですね、もう一日の内に、どのぐらいあるか分からんのですから、心掛けなきゃいけません。
もう信心をさせて頂く者、特に椛目で、御信心のおかげを頂かせてもろうてです、神ながらな、おかげを願うておるのでございますから、神ながらなおかげを頂くために、神ながらな在り方に、こちらがならなきゃいけません、安っぽい人間心は、使うちゃなりません、きざな人間心は、使うちゃなりません、我情我欲の入った人間心は、使うちゃなりません、必ずそれは嫌われるもと、必ず波紋のもと、波紋と言うのはね、波紋を生じると言うでしょう、ね。
その波紋というのはです、もう実に大きくなるんです、問題が問題を産んで行くのです、そして自分一人じゃないです、もう沢山な人が、その波紋によって、災いを引出してくる事になるです、厳密に申しますと、ね、ですから、これが有り難いと言う事の意味合いにおいての、神ながらなものであれば、この波紋がです、もう限りなく、そこを覆うていくのです、おかげの方に、ね。
「波紋広げて沈みに行く石を、また投げぬ、めぐりのそこを知らぬ人の心に、」これは私がもう十年も前に頂いたお歌です、もう本当にこの人、この人のためと思うて、いうたことがです、やはり人間心であるためにです、相手のめぐり深い人の心に、入って行かんのです、ね、そして、反対にそれを悪い意味合いにおいては、波紋を広げて行くもとになったと言う、これは歌なんですよ。
確かに、その人のために思うてしたと、言う様な事であってもです、ね、その人間心の中に我情がはいっておったり、我欲が入っておったり、きざなものがあったり、実意でないものが入っておったり致します時にです、それは反対に跳ね返って参ります、悲しいことです、ね、波紋広げて沈み行く石を、また投げぬ、めぐりのそこを知らぬ、人の心に、もう実に悲しいことです、ね、波紋を広げて行く、そのことに、言うなら、その悲しいことに、巻き込まなければならない、本人もそして投げた私も。
私が今こう言おうとしておる、思うとしておる事は、これは最高の人間、いわゆる信心させて頂く者の、実意のこもった人間心であるかどうかを、確かめてみなければいけません、ね。そしてお取次ぎを頂かなければいけません、止むに止まれん、どうでもその気持ちを起きてくるならばです、お取次ぎを頂いて、それを浄化したものにしていかなければいけません、ね、お取次ぎを頂くという事は、いちいち椛目に出てくると言う意味じゃありません、ね、それに越したことはありませんけれども、ね。
自分の心の中に、お取次ぎを頂いたらいいのです、金光様にお取次ぎを頂いて、只今私はこう言う様な事を思うて、こうしようと思います、こういおうと思います、ね、そうして、御祈念でもさせて頂きよるとで、はぁこれは自分のきざな心、自分の見栄の為に、真心がない、実意のないことを、自分がしようとしておると言うものに、気付いたらもうそこに神様、そんなことは止めよと、言うておられると分からせてもろうて、そこを止めて行かなければならん、ね。
折角例えば、お取次ぎを頂いてお願いをしておりながら、もう早速神様の働きが始まっておるのに、人間心をつこうて、あれやらこれやらと迷い散らかす、これでは神様の働きを必ず、いわば右を左にしてしまうのです、ね。ですから、もう実はこうでございますから、信心の分からん者でございますから、ここんところを、どうぞこう言う風に致しますから、よろしく御願い致しますと、言った様なお願いでもなさってからするならば、そこはまた別の働きが始まります。
もし皆さんここは本当に、あの感ながらな、本当のおかげを頂くためにもう実に大変な大事な事なんですから、おかげを頂かなければいけません、ね。人間心はです、本当に親切なもの、本当に親身なもの、言うならば実意なもの、真心のこもったもの、以外の人間心は使うちゃいけません、必ず波紋を広げて、言うなら、火種の元になります、不幸の元になります、例えその神ながらな生き方と言うところがです、その時は自分のぶが悪るかっても、自分が笑われても、ね。
必ずそれがおかげの元になります、信心で行きますと、もう必ずおかげになります、そのおかげが、神ながらなおかげになって現れて参ります、その時だけはだから修行です。それで皆さん、日常生活なさるうえにです、やはり人間的人間関係の問題なんかは、やはり人間心を使わなければいけません、はぁあの人は金光様の信心をしよんなるけん、もう神ながら事ばっかしならんからと、分かっておる人は良いいるけれど。
信心のない人達のお付き合いなんかがありましょう、それはお付き合いと申します、ね、だからそう言う様なものがです、例えば申しますように、もう最小限度にお付き合いなさるがいいです、ね、そして、そのことは最大限に、神様にお詫びをなさったがいいです、する事は最小限度、そして最大限の神様に対するところの、お詫びとそのことの信心がなさらなければなりません、ありましょうが、門内付き合い、友達付き合いと、その時に私は神ながらな方ば行く、という訳には参りません事がございます、ね。
昨夜、御祈念が済んでからでございました、久保山先生が、先生、茂がおひげをあたりに来たいと言うんですが、明日来るでいいでしょうか、昨日も、一昨日も来て頂いたが、風邪の具合が悪かったから、私の散髪とひげは、必ず久保山の長男の、茂さんが御用を頂いて下さる事になってるんです、風邪が悪かったもんですから、もう髪もひげを積まない、そらない事にしておりました。
で、昨日、久保山先生が明日茂がひげ、散髪に参りましていいでしょうかと言うて、言われるから、さぁ明日はまだどうも少し風邪の機嫌が悪いから、まぁさっきまだある時、二、三日してから、来てくれんのうとこう申しました、ふうっとそしてその後に気が付いたんです、ははぁこれは私の人間心だと、折角神ながらに、先生が言うて下さっておるのに、あっそう、そんならそうして下さいと、言いやいいのだけれど、私は人間心を使うて、そう言う様な些細な事の中にでも。
私は必ずここんところを感ながら、なおかげになることを神様にお願いますりゃ、必ずそういう方法を取ります、でその後に私は申しました、久保山先生に、あぁそれでも茂さん、茂さんの都合のあろうけんで、あの人の都合のよか時にきてくれることを言うて下さいとこう言う、こうなったらもう後は、神ながらでしょう、私がいつ来て下さいとこう言うことはもう人間心なんです。
ですから、私はいつ来てくださいという時に、茂るさんにどういう用件があるかも知れん、その用件を親先生がいうちゃるけんでと、いうてこっちさん来るようになったんでは、私もおかげを頂かなければ、折角の茂さんもおかげを頂けないと私は思うのです、ね、ですから、そう言うたもののすぐ私は後に、あの、あの人にも都合があるかも知れんけんで、あの人の都合次第、でけた時でよか、ね。
そうなるとそこんところは、ぼかしたようになりますけれども、そこが私の人間心を今度は、私はの人間心をぼかした事になる、そして、そこから次の働きが始まるならもう神ながらな働きが、茂さんの都合のよい時間に、私もまた都合の良い時に、必ずおかげを頂くことに違いはないとこう思うのです。これはちょっとした人間心を使った時に、それを神心にぼかして行く働きなのです、ね、皆さん、おかげはね、本当な意味で神ながらなおかげでなからなければです、もう本当なおかげになってこないです。
いわゆる、天衣無縫的なおかげになって来ないです、神ながらなおかげじゃないと、おかげがおかげを産んで行くと言う、おかげになって来ないです、そのおかげがおかげを産んで行く様な、いわばおかげを頂くここに、神様が下さろうとしておるのに、私共はつまらん人間心を使うてです、こちらに流れてきよるのを、向こうへ押しやる様な働きが人間心、しかもその人間、そう言う働きをする人間心はですね、悪い意味合いの働きをする人間心はですね、必ず我情があり我欲があり、きざな心があり見栄があり、ね。
そう言う様な人間心を使うとです、必ず神ながらおかげを、右に左にしてしまいます。これでは折角つまらんでしょうが皆さん。皆さん、どうぞ神ながらなおかげを頂くために、神ながらな生き方、神ながらな道を体得しなければいけません、それでもやはり人間である以上、人間のやはり心も使う、浅はかな浅い考え方がういてくる、しかも、それがいかにもよかろうのように見える、思われる。
けれどもそこんところは、また神様にお詫びもし、お願いもし、ね。いよいよしかしこれは、自分のこの人間心の中にはきざな心があった、実意の心が欠けておったと分かったら、しかし潔うそのの人間心を、例えその場で自分が、言うなら、おかしかったりぶが悪かったり、ね、顔が悪いような事になってもです、押してそこんところは、神ながらな方の道をとらなければ、いけないと思うのです。
どうぞ、信心をさせて頂くならです、ここんところをよく一つ、人間心をつこうちゃ神ながらな、おかげを受けられんという事は、ここで暫くでも信心の稽古をさせて頂いておる人ならば、知っておることである、知っておることだけれども、実際はです、それが行じられていないという事、そこを徹して行じる事、そのことが、すでにもう信心生活であり、心を神様に向けておる、という事になるのですから、おかげになります。
どうぞ。